ICON 脳を愛するのではなく、人を愛す

「妻を帽子とまちがえた男」 / オリバー・サックス(晶文社)


 オリンピックの見すぎで涙腺がオバサン化してしまったこの涙という奴は全身にシャワーを浴びたような心地良さがあるもんだからついつい癖になるまあこれを専門用語ではカタルシスと言うのだが年をとるにつれ涙に対する抑制がきかなくなる情けないと思いつつ泣きたいという欲望に身をまかせてしまうそこには理性のかけらもない
 学生の頃テレビを見て泣いているお袋に「なんでこんな所でなくんだろう」と不可思議に思ったが自分の身にふりかかってきている訳だ脳の働きのどこかが弱ってきているとしかいいようがないだが弱った所で泣く事は気持ちがいいんだからそんな脳など弱ってしまえと開き直ることにしただから私の場合オリンピックの金メダルがかかった試合など日本ガンバレ勝つんだという声援でなく「頼む、オレを泣かせろ!」と叫んでいる銀はダメ金の涙こそ具体的で別のなんの要素もなくて泣ける山頂を登りつめたカタルシスだしかしその山登りを選手と共有するためには長い時間その競技を見る必要がある時間と涙の量は正比例するマラソンであれ柔道であれ同タイムで見て感動があるというものだ
 しかしやっと本題に入るがこの「妻を帽子とまちがえた男」に出てくる神経に障害を持った数多くの人物の1人はこれができない2分前に起こった出来事をどんどん忘れて行く脳の記憶装置が故障している他はすべて正常なのに記憶が30年前で止まって他の記憶を受け付けないのだ実際の患者さんの話なので明日は我が身といったリアリティが迫ってくるこの人の場合2分間泣き続ければ今自分が何に泣いているのかさえ分らなくなる永遠の短距離選手まさにアイデンティティの崩壊だまた別の人物は自分の左足が自分の物でないと主張するこの小さな脳のどの部分を触ればそうなってしまうのだろうかまさに脳が自分の足だと決定している事がまざまざとわかるまたある人は脳で自分の足だと認識できてもそれを自然に動かす脳神経が侵され視覚でそれをやっている目をつぶると自分の物でなくなってしまうのだ視覚でバランスをとって歩行し物を掴むのだこの位置に足があれば倒れないといつも目で確認しなければ立つという行為はありえない脳とはなんと入り組んだコンピューターなんだろう他にも信じられないような患者が次々に登場する
 この本は人間が人間たらしめているのは何か根源的なところで考えさせ教えてくれるそして脳を愛するのでなく人を愛すのだという事も息子が大きくなったら読ませたい本の一つとしてとっておく事にした

( 協力 / 桃園書房・小説CULB '92年10月号掲載)

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