満開の桜が咲きほこる多摩川の堤を通った。桜は数が多ければ多い程、人を興奮させる。まさに、ライブの観客に似ている。その日も桜の下で酒盛りをしているグループがあったが、花見と称しているが、実は花の方が人間達を見ているんじゃないかといった妙な錯覚にとらわれた。まてよ、まてまて、それで本当の客でない客を「桜」と言うのかしら?そうした錯覚を誰しもがしたんだろうか。それとも、昔、テキヤは桜の木を相手に練習していたのかしら。「客が多いな、きっと、桜が混じっているんだよ。」って言う時の桜は、どうも悪い意味のようだ。う〜む、わからん。誰か教えて!その代わりに、桜に関する素敵な発見を教えてあげるから。桜は雨の日に見に行きなさい。強烈にさくら餅の匂いがするから。発情する桜、これは乙なもんですよ。まさに、木々は生きているといった所ですか。
ああ〜やっと、きのう読んだ本にテーマが近づいて来ました。そう、木々や動物や風、雷も生きているんだよと教えてくれる本がこれ「リトル・トリー」。細かく丁寧に森の息づかいを描写してくれるので、実際に山に行くより、山に行った気にさせてくれる。ストーリーはあるようでない、どこのページをよんでも爽やかな気分になる。ニューヨークの大都会でよく読まれているというのも頷ける。
インディアンの少年が森でおじいちゃん、おばあちゃんと暮らす。おじいちゃんから狩猟やら生き方を学んでいくといった人生訓的な所があるのだが、全く嫌味でない。おじいちゃんが説くのは、必要以上に欲しがらない、弱肉強食にはルールがある、物事の決定は自分でしろ。私は少年となって聞き入ってしまった。「鹿を捕るときはな、いっとう立派な奴を捕っちゃならねえ。小さくてのろまな奴だけを捕るんじゃ。そうすりゃ残った鹿がもっと強くなっていく。そしてわしらに肉を絶やさず運んでくれる。」そして「蜂は食べきれない程、蜜を貯めこむから熊とか人間に盗まれる。」と鋭く。生きていくための間引きの必要性が底辺に流れている。春の嵐で倒れる木は、弱いからだ。雷でやられるのもしかり、風も雷も自然界すべてが生きている。そして、弱い老人もバタバタと死んで、土の中に帰ってゆく。死がこれ程、すがすがしい本は読んだ事がない。文明の行きづまりは、とりあえず欲を捨て、自然に帰ってみる事でしか解決しないのかもしれません。単純な事ほどできない、人間はどうしてこんなに複雑になってしまったんでしょう。
そして、歴史はインディアンが弱い者として、白人に押しやられてしまった。インディアンはのろまであったのだろうか。最後の問が私に残った。きっと「共存」を破るものは地球が征伐するのだろう。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '92年6月号掲載)